日記
昨日と打って変わってお天気もよく、夏みたいに暑い日だった。
私はというと、今度は朝から首を寝違えていて、コンディション最悪。ふとした瞬間に気持ちが落ち込んでくるので、頓服のソラナックスを数時間おきに飲んだりして、どうにか正気を保って仕事をしないとと体に力が入ってしまう。
今日は給料日だった。
ありがたいことに基本給が上がったおかげで、先月の残業時間はいつもに比べると少なかったものの、手取りはそこそこの額がキープできた。即時、家賃や生活費を計算し、必要な口座にお金を移動させる。独身の時は月一の給料日が嬉しくて、いくら貯金できるかしら、というところでワクワクしていたけれど、今の青子は、2人分の家賃を支払い、2人分の生活費を支払い、生活費に一体いくらかかるんだろうとビクビクしていて、給料日が楽しくないことに落胆してしまった。
家賃や生活費がべらぼうに高いわけではないし、私の手取り収入で十分賄える。貯金もできるくらいに。私の元来のケチな性格が良くないのかもしれない。
前回夫のギャンブル依存症が分かったあと、1ヶ月以上かけて折り合いをつけた自分の気持ちが、夫のスリップによって無に帰されて、また0から気持ちの折り合いをつけるのに必死になっている。
夫の姿を見るたびに「私の稼いだお金で生活しているんだ」「私が生活を成り立たせている裏でギャンブルでお金溶かして生活費入れなかったんだ」みたいなことがよぎってしまい、夫を憎く思う気持ちもあるし、そんなことを思ってしまう自分に絶望したりする。
そもそもそんなことを思ってしまう時点で、私は結婚に向いていなかったのでは?
「病める時も健やかなる時も」と言うけれど(我々は結婚式を挙げていないけれど)、病める時にも寄り添う覚悟が全然なかったのかもしれない。
そう思ってまた落ち込んでしまう。私の落ち込みとは裏腹に外が快晴すぎてクソムカつく。
結婚式とか、子どもとか、家とか
私には「子どもを持ちたい」という願望が全くない。昔から今に至るまで一切ない。
10代の頃から生きていることに絶望して、命を放棄したいと思い続けて過ごした時間の方が圧倒的に長かったし、今だって度々放棄したくなるくらいなので、そんな自分には到底子どもをもつ資格も能力もないし、そもそも願望自体一切ない。
友達の子どもや、街中にいる幼子を見て「かわいい」と思う感情はある。未来ある若い命、出来るだけ健やかに育ってくれと思う。
だけど、私の人生観では「生きていること」自体が苦痛なので、それをわざわざ別個体を生み出して味合わせるなんていうのは到底考えられない。無理すぎる。だから子どもは欲しくない。
持ち家を欲しいとも思わない。自分が長く生きるビジョンを持てないまま、気がつくと惰性で30歳という年齢まで生きてしまっただけなので、終の住処になりうるものが欲しいと思わないし、私の中では、最大同居人数は夫婦2人暮らしまでなので、広さにしても賃貸アパートで十分。
結婚式についても、強烈に「やりたい」という気持ちはない。自分の両親のことを思うと、それらしいものをするか、せめて何か形に残るフォトウェディングくらいはしないと親不孝かなという気持ちはあるけれど、それくらいで。私自身がやりたいとは思わないけれど、お世話になった人に孝行するためにやった方が良いのかなと悩むくらい。
これらのことを、「望んでいない」私でよかった、と今強く思っている。
だって夫のギャンブル依存症の問題がある状態で、子どもをもつのも家を買うのもリスキーだし、今夫の懐はすっからかんどころかマイナス数百万円の状態なので、経済的な負担をこれ以上負うことは難しい。
そして私は、自分が抱えている精神疾患と、過去のやらかし(命を放棄しかけて入院したこと)を踏まえて自分のことを一切信用していないので、自分ひとりで負える責任の範囲でのみ、身の丈にあった望みしか持ちたくないのだ。
子どもも持ち家も、私の身の丈に合わない。だから望まない。
夫のギャンブル依存症が分かってからこの「望まない」気持ちはより強くなったし、こんな自分でよかったと思う。子どもや家を渇望する人からしたら、ギャンブル依存症のパートナーを持つことはもっと辛いことなのではないだろうか。
だけど、こうやって思考を巡らせていると、これは自分のためなのか、はたまた夫のためにそう思っているのかというのが分からなくなってくる。
もしかしてだけど、そういうのが「共依存」っていうんじゃないんだろうか。
自分と相手との境界がなくなっていくような…
昨日も書いたけど、私が何か重大な問題を抱えている可能性が大いにある気がしているので、自助グループに繋がったり、ネットで調べたりして勉強しなくちゃいけないのかもしれない。
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